2010年1月21日木曜日

倭寇の外観と使った戦法

倭寇の外観

武器
倭寇のおもな武器はかたなだった。船で戦ったのでかたなは一番使いやすい武器だった。敵の船を乗る前に弓も使った。そして、16世紀の半ばから倭寇の間に鉄砲は人気が出始めた。弓と同じく敵の船を乗る前に敵に多くの火縄銃を射撃して、攻撃した。しかし、大砲という武器がぜんぜん使われなかった。陸戦の時なぎなたややりなども使われた。


倭寇は軽い鎧を着ていたのに、この鎧はよく胴鎧からしか成り立たなかった。しかし、おおぜいの倭寇がびんぼうだったので、鎧をまったく着ていなかった。そのうえ鎧を着ている場合は泳ぐことはむずかしくて、海戦の時攻撃の妨げになったから、戦闘中鎧を着ていない倭寇は珍しくなかった。
下の図は代表的な倭寇を見せる



一番人気があった船は遣明船だった。この船は速くて、船倉の容量が大きかったので、多くの倭寇に使われた。他の使われた船は安宅船とか関船とか小早船とかいろいろだった。安宅船と関船は遣明船とくらべて丈夫な船だったが、船倉は小さくて、あまり速くなかった。小早船は速いことは速かったが、とても小さくて、船倉がなくて、あまり丈夫ではなかった。そのうえいろんな貨物船も使われたが、その船は品物を運送するために作られたものなので、攻撃したり戦ったりすることに役に立たなかった。

遣明船


小早船、安宅船、関船


倭寇の隠れ場
最初倭寇が一番多いの所は対馬だったが、15世紀の半ばから浙江省
と言う中国の地域に住み始めた。その地域の海岸の近くに小島が多いので、隠れることは容易だった。他のところ(たとえば琉球)にも隠れ場があったが、そういうところは多くなかった。

活動
倭寇は略奪だけでなく他のこともした。たとえば密輸をしたり住民を奴隷にしたりした。そのうえ倭寇が強要罪もした。つまり倭寇の領域をわたる人から品物やお金などを求めた。時々条件があえば、倭寇は貿易もした。


使った戦法
倭寇の集団は人が多くて、小さい軍隊のようなものであった。たとえば、一番大きな集団は3千人がいた。攻撃の前に集団の一員がいくつかのグループに分かれて、そのグループはいっしょに攻撃した。船を攻撃した時、一つのグループは自分の船を降りて敵の船へ泳いで、その船を上って倭寇の船に残ったグループといっしょに攻撃した。防御者はこの戦法をとくに恐れた。防御者が倭寇の実の目的を知らないように倭寇がよく擬似攻撃をした。港を攻撃してから略奪品は少なかった場合には内陸部にある町を略奪した。

倭寇の攻撃を防御方法
16世紀の半ばから韓国でよく使われた防御方法は逃げることであった。韓国の法律によると住民は倭寇の攻撃の場合にすぐ近くの山城に行かなければならなかった。住民を守るのは韓国の軍隊の義務であったが、当時韓国の軍隊はとても弱かったので、倭寇を見るなり逃げ出す軍隊は珍しくなかった。他方においては、韓国の防御のとくいは情報を伝える制度であった。海岸に多くの烽火台があった。倭寇の船が近づいたとき防御が烽火台をつけて、このように他の烽火台に信号を送った。それでつぎの烽火台がついだ。それこそが情報を伝える制度であった。

中国人は逃げるかわりに港の要塞化を強めることに決めた。下の図は蓬莱市という港をみせる。蓬莱市は当時の代表的な中国の港であった。



港口はとてもせまくて陸地からの入り口は一つしかないので、港を防御することが容易である。

倭寇を戦う時、もっとも役に立った武器は鉄砲であった。韓国の船でも中国の船でも大砲がよく使われた。倭寇の好きな戦法は敵の船に近づいてその船に乗ることであった。そのような戦法を防ぐのにもっとも効果的方法は遠くから倭寇へ大砲を放つことであった。中国人と韓国人はその戦法を使って、倭寇をよく勝った。

射撃 - firing, shooting - strzelanie
戦闘 - battle, combat - bitwa, starcie
領域 - territory - terytorium
擬似 - false - fałszywy
蓬莱市 - Penglai
放つ - to fire - strzelać

倭寇の活動の範囲と貿易と外交に関する倭寇の問題

倭寇の活動の範囲



倭寇が最初韓国の港と日本の港を攻撃したが、14世紀の半ばから中国の港も攻撃するようになった。琉球列島にある港も略奪したが、そこの港は倭寇の間にそんなに人気がなかった。16世紀のすえに倭寇は韓国半島からマカオにいたるまで、略奪した。


貿易と外交に関する倭寇の問題

倭寇の活動の中心は必要な品物を得ることだった。最初これは天災に原因があった非合法な行動だったが、次の世紀には貿易制限も倭寇の活動に影響した。

倭寇の攻撃が始まったのは韓国がモンゴル人と戦争していた中国を助けた時だった。韓国の南分には軍隊は少なかったのに韓国の住民は強い抵抗して、倭寇が港を攻撃することを妨げていた。モンゴル人が韓国半島に入ったあとで、倭寇の攻撃が増えてきたが、モンゴルの元朝が自分の勢力を韓国に拡大したあとで、攻撃はどんどん減てきた。なぜなら倭寇がモンゴルの反撃をとても怖がれたからです。モンゴル人は日本を侵略してみた時、倭寇が侍といっしょに侵略者を戦っていた。しかし、元朝の勢力が衰えたと攻撃がもう一度増えてきた。1350年からどんどん増えて、14世紀の末には(明朝の時)倭寇が韓国にとって深刻な問題になったので、大勢の倭寇が住んでいた対馬が韓国の軍隊に攻撃された。対馬人が勝ったが、韓国人の攻撃が対馬を支配したそうさだもり宗貞盛を心配しました。だから、宗貞盛は倭寇の活動を静めて、外交的手段によって日本と韓国の貿易を始めた。宗貞盛のおかげで日本は韓国に制限の少ない貿易特権をもらったので、
15世紀の末まで韓国の海岸には倭寇がほぼ見られませんでした。しかし、足利幕府の勢力が衰えるとともに倭寇の活動がだんだん増えていった。とくに戦国時代にいろんな大名が自分の財政の状態を良くするために倭寇のような活動に向いた。そこで韓国は貿易を止めることにした。

1358年に元朝は滅びて、明朝の治世が始まった。日本には足利幕府の時代になった。足利義満にとって海外貿易は非常に大切なことで、中国と貿易し始めることがほしかったですが、最初に明朝に臣従を誓わなければならなかった。足利義満は臣従を誓約したあとで、明朝はまさに日本との貿易をみとめたが、自由貿易ではなっかった。中国と貿易ができた日本人は少なかった。そしてこの特権をもらえなかった人は倭寇に向いて、倭寇の活動はだんだん増えていった。それだから中国の政府は日本との貿易を禁じて、日本との外交関係をやめた。そこで倭寇がさらに増えていった。15世紀と16世紀、貿易規制はすこし撤廃されましたが、すぐに前の状態に戻りました。




琉球 - Ryukyu(Okinawa)
妨げる ー disturb, prevent - utrudniać
拡大 - expansion - ekspansja
反撃 - counterattack - kontratak

衰える - decline - upadać
宗貞盛 - So Sadamori

倭寇の定義と出現


「倭寇」と言うのはなんだか。

英語の「pirates」と言う単語は日本語に翻訳したいと、「海賊」と言う単語を使える。そして、パイレーツと言う単語も使われていることがある。しかし辞書を引くと、「倭寇」と言う単語もある。この単語の意味を調べると「japanese pirates」と言われている。「倭寇」と言う人は他の人を攻撃したり、略奪したりする日本人だった。つまり、倭寇は日本の海賊だったが、日本の港も韓国の港も中国の港も略奪した。だが実はこの定義があまりによくないだと思もう。

昔から瀬戸内海ではいろんな集団が攻撃したり略奪したりした。だいたい十一世紀からこの集団は「海賊」と言われるようになって、だんだん日本の行政にとって問題になってきた。時々いろんな武士が海賊を戦って、政府に助けて差し上げた。とくに、平氏が海賊を戦って自分の勢力を増した。

「倭寇」と言う名称は初めて五世紀に韓国の年代記に現れてきて、海賊と関係がなかった。当時韓国半島には三つの王国があって、この王国は(新羅、百済、高句麗)戦争中だった。その時、百済王国は大和国と同盟したので, 大和は韓国半島へ自分の兵隊を派遣して、百済を助けてあげたことがあった。日本から韓国半島に来た武士は「倭寇」いわば倭国から来た武士と言われた。

しかし、十三世紀に「倭寇」と言う言葉の意味が変わった。そのときから攻撃したり略奪したりする人を指示するようになった。この名称が日本でも韓国でも中国でも使われて、発音は国によって違ったのに、おなじ漢字で書かれた。「倭寇」と言う言葉は東にある国から来たパイレーツの意味があったが、実は倭寇の集団の間に日本人はよく少数だった。たとえば十六世紀の中国の年代記によると倭寇の間に日本人の割合は30%だけで、70%は中国人と韓国人だった。中国人と韓国人が倭寇は日本人だけでなくいろいろな国の人々を包含するということを知っていたが、それにもかかわらずこの名称が使われた。

なぜ倭寇が出現したか。

倭寇はおもに貧乏な地域に生活する人だった。だからその地域に作物は少なくて、飢饉もいろんな天災もあった時そこで生活した住民は略奪することにきめるようになった。たとえば、十三世紀のはじめに倭寇の攻撃はいつも天災の後で行った。そして、この世紀には韓国と中国がモンゴル人を戦った。だから、韓国の南分には軍隊が少なかったので、韓国の港を攻撃することはとても容易だった。そして、鎌倉幕府の勢力は日本の西南分にあまり強くなかったので、倭寇が出現することに邪魔がなかった。

瀬戸内海 - The Inland Sea of Japan - Morze Wewnetrzne
平氏 - The Taira - ród Taira
新羅 - Silla
百済 - Paekche
高句麗 - Koguryo
飢饉 - famine - głód
天災 - natural disaster - klęska żywiołowa